博物館

旅先で博物館によく立ち寄ります。
博物館の中で感じる、日常とはちょっと違った時間の流れが好きです。
博物館は、ゆったりとした時間の中に自分を放り込み、毎日のあわただしい生活をしばらく忘れさせてくれますし、人類が積み上げてきた英知に向き合わせてくれます。

また、さまざまな展示があれこれ興味をかきたててくれるので、興味の旗竿がどんどん立ち上がります。

塾で教えていると、いろいろなことに関心がある生徒は、社会とか理科の成績がよいことが多いです。
これは、たぶん興味の旗竿がたくさん立っていて、学習効率がよくなるからです。

例えば中1の地理で多くの国名と地図上の位置を学びます。
サッカーに興味があれば、フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、ブラジル、アルゼンチン、メキシコ等は一度は聞いたことがある国名で、その国の選手やチームに対してなんらかのイメージを持っていますから、覚えるのにそれほど苦労はしません。

これに対し、国名にまったく関心がない生徒にとっては、国名は「ホナハ」「マバチケ」などという意味のない言葉の羅列にすぎませんから、覚えるのは苦痛以外のなにものでもないと思います。

ドラクエをしたことがない人に、「ベホイミ」「メラミ」「マヒャド」等の呪文をただ覚えろといっても、意味がないものは、とても覚えられるものではありません。それと同じです。

できるだけ多くの興味の旗竿をたてておけば、中学校で加速度的に増えるさまざまな知識も、どれかの旗竿にひっかかりますから、それほど苦労なく覚えることができます。

小学校の学習の要諦は、読み書き、そろばん、あとはできるだけ多く興味の旗竿をたててあげること、それにつきると思います。英語なんて必要ありません

立ち寄った博物館で興味の旗竿にかかったものを、インターネットで少し調べてまとめてみました。

松下幸之助歴史館~大阪府門真市

松下幸之助
一代で松下電器、現パナソニックを築き上げました。

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「ナショナル」は松下電器の国内向けブランドで
昔は、家電は、まず「ナショナル」でした。
「質が良く、それでいて価格はそれほど高くない」というイメージで
私の家でも小さい頃は
テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機等すべて「ナショナル」でした。

* 今は海外や当初音響製品で使われた「パナソニック」ブランドに統一されて
  会社名も数年前に「松下電器」から「パナソニック」に変更になりました。
* 松下電器は「課長島耕作」のモデルになった会社として有名ですね。

松下幸之助は日清戦争真っ只中の1894年(明治27年)和歌山県で生まれます。
資産家の息子として生まれた幸之助でしたが、父が米相場で失敗。
9才で、小学校を中退し、大阪へ丁稚奉公に出されます。

* まだまだ日本全体が貧しかった明治大正の頃から第2次世界大戦まで
  商店が、10歳位を子供を無給で働かせる代わりに、
  衣食住を保障する丁稚制度がありました。
  貧しくて子供を育てるのが困難な子供の親
  安い労働力が手に入る商店
  双方にメリットがあり行なわれていました。

丁稚に入ったのは、当時まだ新しく高価だった自転車を販売する「五代商店」。

朝5時に起き、表をあけ掃除し水を打ちます。そして拭き掃除を一時間ばかり。
夏であれば夜の10時頃まで店を開けているので、12時間以上の労働があたり前だったようです。

* 丁稚奉公については山崎豊子さんの「暖簾」という小説に生き生きと描かれています。
  淡路島から「たった35銭を握りしめて出てきた15歳の吾平」は
  「ご先祖の命日に、主人の故郷(くに)から偶然出てきたのも何かの因縁や」と
  昆布屋「浪花屋」の主人に拾われ、丁稚になり吾吉と言う名を与えられます。

  丁稚の吾吉の仕事は、毎日午前5時に起きランプ掃除から始まります。
  ある日旦那さんに「いつみても熱心やな。ランプ掃除好きか」と聞かれ
  「いえ、こんな辛気くさいこと、一向性に合え致しません。
  けど…、酢のきいたピカッと光った昆布の艶は、煤けたランプの光でははえ致しませんの
  で…」と答える吾吉
  「なに…」と旦那さんは絶句します。
  それから4日目、奉公してから5ヶ月目、吾吉は雑役から解放されて、はじめて店に出るこ
  とを許されます。

  でも店に出るとは名ばかりで、旦那はんや番頭はんの走り使いに追われます。
  「吾吉っどん」と声がかかると間髪をいれずに「へーイ」と答え、
  用事をいいつかるまでに腰をあげてつま先だち、
  聞き終わるや草履をつっかけて表へ飛び出す、
  その機敏なこつをのみ込むまではノロマ!ドンクサイ!と口汚く罵られます。

  やがて淡路島の訛がとれ、大阪弁を粗忽なくしゃべれるようになるとお客の相手が許されま
  す。

  こんな感じで語られる、
  昆布屋の丁稚からはじめてずいぶん辛い歳月を経、手代から番頭になり、暖簾分けをしても
  らい独立した吾平と、その後をついだ息子孝平の、波瀾万丈の年代記です。
  明治・大正・昭和にかけて、関東大震災、日中戦争、太平洋戦争、戦後の混乱を背景に物語
  が展開されます。

  作者山崎豊子の実家である昆布屋をモデルにしているだけあって、細かい描写が恐ろしいほ
  どの臨場感を生み出し、まるで自分がその場にいるような気がします。
  読み始めると時のたつのを忘れ、あっという間に最後のページまで読んでしまうほどです。

  「本家から分けていただいた浪速屋の暖簾が抵当だす。大阪商人にこれほど堅い抵当はほか
  におまへん。暖簾は商人の命だす」
  と、暖簾を抵当に銀行の支店長に融資を頼むシーン。
  
  闇のブローカーになってしまった店員に対し
  「大阪商人が闇稼ぎしたら、日本中にほんまの商人無うなってしまいよるわ。大阪商人の根
  性はなあ、信用ある商品を薄利多売して、その労苦で儲けることや」
  と語るシーン。

  大阪商人の信用であり、誇りであり、道徳であり、生命でもある「暖簾」。
  読み終えると、「暖簾」に生きる大阪商人に、なぜか親近感を感じ、すました冷たい感じが
  する東京にある大企業よりも、大阪商人から買おうという気になります。
   
* 山崎豊子さんはその後、「白い巨塔」「華麗なる一族」「不毛地帯」「大地の子」「沈まぬ
  太陽」等、続々と社会派とよばれる長編を発表しベストセラー作家となりましたが、「白い
  巨塔」を除いては、おもしろさ、という点で、デビュー作のこの「暖簾」、2作目の「花の
  れん」(吉本興業の創業者の女性をモデルにしたもので、これも読み始めるとやめられませ
  ん)を越えることはできなかったと思います。

画像の説明画像の説明

* 学生時代に買って(110円!!)何度読んだかわかりません。
  今でも年に1度は読み返します。

(追加)
明治43年、開通したばかりの大阪の市電が「電気で走る」のを見て
幸之助は、「これからは電気の時代。電気に関わる仕事を」と、思うようになり、
大阪電燈株式会社(現在の関西電力)の見習工になります。

16歳で見習工から、電気配線を直接行う担当者に昇格。
さらに電気科のある夜学へ通い、22歳の若さで管理職である検査員に昇格します。

検査員として各家庭を回った幸之助がまず気づいたのが、ソケットの故障の多さでした。
そこで幸之助は「ソケットの改良」に取り組み始めます。
検査員の仕事が終わってから、会社にひとり残り改良を続けて1年。
従来のソケットは、ソケットのネジに配線コードをまいてハンダ付けして固定しなければならず、その分こわれやすかったのですが、
幸之助の考案したソケットは、配線コードとソケットにつけられた金属板が押し込めば接触するようになっており、ハンダ付け不要の簡単な仕組みでこわれにくくなっていました。
幸之助はついに試作品を完成させます。しかし会社はまったく認めてくれません。

自分で本格的に改良品をつくってみたいと思った幸之助は23歳で独立を決意します。
2階建ての家を借り、1階を改造し作業場にします。


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人手は自分を含めて家族3人。
「松下式ソケット」に続き
「アタッチメントプラグ」や「二灯用差し込みプラグ」を考案します。


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当時の電気代は電灯1灯についての定額制だったので、
電灯を差し込む配線口に扇風機やアイロンなど、他の家電も使えるようなしくみにすれば便利でした。
これを解決したのが「アタッチメントプラグ」や「二灯用差し込みプラグ」でした。

幸之助は、便利で安い配線器具を次々と生み出し、松下電器の基礎を築いていきました。

そして、ランプ、アイロン、ラジオと事業を拡大していきます。
戦後は、昭和20年代後半から30年代に「三種の神器」と呼ばれたテレビ、冷蔵庫、洗濯機など新しい家電製品を世に送り出して電化ブームを牽引。
海外へも積極的に展開し、昭和34年(1959)のアメリカ松下電器を皮切りに次々と海外会社を設立し、日本企業のグローバル化の先駆けとなりました。

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* ↑扇風機のようなのが電気ストーブ         ↑白黒テレビ1号機  
   右が電気こたつ
今では想像もできないことですが、私の子ども時代はテレビがある家がまだ少なく(お金持ちの家にしかありませんでした)、週に1~2回、その家に行ってテレビを見せてもらうのが楽しみでした。

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* ↑電気洗濯機             ↑手回し脱水器の拡大

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* ↑なんとなんと電子レンジ

熊本城天守閣内 熊本博物館分館 

秀吉の頃、加藤清正が築いた希代の名城といわれる、熊本城。
この城のすごさがわかったのは
江戸時代ではなく、明治になって西南戦争のときでした。

西南戦争は明治維新によって生じた矛盾や問題が、武力蜂起によって吹き出した
近代日本最大の内戦であり
日本最後の内戦でした。(現時点では)

明治維新は薩長土肥の武士を中心とした革命でしたが、
新政府が立ち上がると、革命を成功させた武士たちにとって厳しい政策が次々と採用されました。

1873年の徴兵令により、武士の仕事を奪われ
1876年の廃刀令により、武士の魂である刀を奪われ、
平民との同化が進められます。
さらに
1876年の秩禄処分により、廃藩で失業した武士に与えられていた年金の支給が打ち切られ、
武士の生活は困窮します。

新政府に失望した武士は、
肥前で佐賀の乱、肥後で神風連の乱、長州で萩の乱と
西日本各地で反乱をおこします。
これらの乱がことごとく新政府軍におさえられ失敗する中
征韓論に敗れ政府を去った西郷隆盛を中心にしておきたのが西南戦争でした。

* 不平士族の反乱が相次ぐ中、農民の地租改正一揆もあちこちで頻発していました。革命後の
  明治政府をひとりでつくりあげたといってよい天性の政治家大久保利通は、地租を地価の
  2.5%に下げることによって農民との妥協をはかり、農民一揆が士族の反乱と結びつくの
  を防ぎながら、西郷のいる鹿児島をみつめていました。

明治維新に尽した旧薩摩藩・鹿児島県士族の明治政府への反発は激しく、
鹿児島県は、政府の力が及ばない、独立国に近い状態になっていました。

鹿児島に帰った西郷は
若者たちを指導し、新しい近代日本を築く人材育成のために
また、不平士族の暴発を防ぐために
私学校を設立します。
* 西郷の出資だけではなく、鹿児島県の予算からも設立資金が拠出された半公立の学校でし
  た。

私学校は最盛時には130校にのぼり、全生徒1万人以上の規模に膨れあがりました。
そして、鹿児島県は政府への租税納入も拒否し、明治政府にとって不気味な存在になります。
明治政府は警戒感を強め、鹿児島に密偵を送りこみ、様々な圧力と挑発を繰り返します。

そのような状況の中、
西郷の意志は、私学校士族の末端まではなかなか浸透せず、
私学校は、政治団体的色彩を帯びていきます。

そして数々の政府の挑発行為に、薩摩の血気盛んな若者たちはまんまと乗せられ
暴動を起こしてしまいます。
私学校生徒による暴動の知らせを聞いた西郷は
「ちょ、しもうた!」とつぶやいたそうです。
しかし私学校幹部の決起の意志が強いのを知ると、
ついに「おはんどんにおいの体をあげもんす」と決起を了承。
死を覚悟し、新政府に対して改善の要求行動を起こします。

司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」の「権兵衛のこと」の章で書いておられます

「薩摩的将帥というのは、まず自分の実務のいっさいをまかせるすぐれた実務家をさがす。
あとはその実務家のやりいいようにひろい場をつくってやり、なにもかもまかせきってしまう。
ただ場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟をきめこむ」

「『人間が大きいという点では大山巌(隆盛のいとこで日露戦争の満州軍総司令官)が最大だろう』、
と誰かがいうと、
西郷従道(隆盛の弟、海軍大臣、日清日露戦争を選んだ部下に任せ勝利に導く)のほうが、大山の5倍も大きかった、
と別の人が言ったところ、
西郷隆盛を知っているひとがいて、
『その従道でも、兄の隆盛に比べると月の前の星だった』といったから、
一座の人々は西郷隆盛という人物の巨大さを想像するのに気が遠くなる思いがした。」
と。

2月17日、西郷軍1万3000人は鹿児島から熊本に向けて出撃します。

ところが、名将加藤清正が造りあげた堅固な熊本城の防衛力は尋常ではありません。
3日間の激戦が終わっても、西郷軍は一兵も城内に入ることができませんでした。
熊本城を前に兵力と日数を消耗する西郷軍、
その間に政府軍は博多湾から増援を次々と熊本県へ送り込みます。

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* 司馬遼太郎さんの「翔ぶが如く」によると、西郷は権高なところがなく、とてもこのような
  傲慢な手紙は書けず、県庁の役人が書いた ということです。

画像の説明

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* 後に台湾総督になった樺山資紀、日露戦争を満州で 実質的に仕切った児玉源太郎、
  日清日露戦争で活躍した奥 保鞏、学習院院長から政治家に転身した谷 干城等
  そうそうたる顔ぶれです。



(追加)
* 加藤清正は城内に銀杏の樹を植えるとき、 「この樹が大きく伸び、天守閣と肩を並べる頃
  に、大乱が起きるだろう」 と言ったといいます。
  そして270年後それは現実となりました。
  しかし清正が技術の枠を凝らして築城した熊本城は、西郷軍進攻の前に頑として立ちはだ
  かりました。
* 加藤清正は、朝鮮出兵のとき篭城をして飢えに苦しめられました。
  その経験から、熊本城築城にあたっては壁に干瓢をうめこんだり、畳に芋の茎をいれたり
  します。
  また場内に120以上の井戸を掘ったとされています。
  

北方から政府軍が南下して熊本城と連絡することを防ぐために
薩摩軍は、3000の熊本城攻囲軍を残し
北の田原坂(たばるざか)へと兵を進めます。

有名な田原坂の戦いです。

京都の老舗のお店で「この間の戦争は」といえば太平洋戦争ではなく応仁の乱をさすように
田原坂あたりの方にとって「この間の戦争は」といえば西南戦争をさすようです。

田原坂は、長さ1.5km、標高差60Mのゆるやかな坂です。
ただし、当時は道路が塹壕のように地をえぐって造られており
えぐった土が両側に積みあげられ
隧道をいくような感じの場所もあったようです。
これも加藤清正が熊本城の防御を固めるため
そのように造ったといわれています。

ここで官軍と薩摩軍が、三月四日から十七昼夜も一進一退を繰り返しました。
7㎞四方の戦場で17昼夜の激闘!!!
一日32万発!!もの弾丸の雨が降り注ぎ、弾丸が空中で激突したほどで
西南戦争最大の激戦地となりました。

雨が降り続き、泥沼の戦場となった田原坂。
豪雨の中で狭い山道の塹壕に隠れるように撃つ薩摩軍と、その隘路をぬけようとする官軍の激戦。
しかし雨は官軍に味方しました。

薩摩軍の兵士が着用していたのは木綿の着物にわらじ。
降り続いた雨の中で木綿の着物は水を吸い重くなって動きが鈍くなり、
わらじは雨と泥の中でプツプツと切れ、体力を消耗しました。
また、薩摩軍が使っていた銃口から弾をこめるエンフィールド銃は装填に手間がかかるので、
熟練兵士でも1分間に4発撃つのが限界でした。
しかも、装填の際に銃を立てないといけないので敵に狙撃される危険性も高かったのです。
さらに、火薬が水を吸って不発になったと言います。

対して官軍は
水に強いラシャの軍服に皮の軍靴、
加えて雨の中でも発射できる、手前から弾込めをするスナイドル銃を使用していました。
装填動作が簡単なので、未熟な兵士でも前装銃であるエンフィールド銃の数倍のペースで射撃できるうえに、
匍匐姿勢での装填も容易でしたから、狙撃される可能性が低かったのです。

弾薬の確保も問題だったようです。
当時の政府の弾丸製造能力は1日12万発で、外国からの輸入でなんとかしのいだようです。
対して薩摩軍は、鍋や釜を溶かして手作りしたり、付近の農民を雇って官軍の弾薬を拾わせたりしました。

結局この軍備の違いが勝敗を分けました。

三月二十日、田原坂は終に陥ち、その後薩摩軍の敗走はさらに続きます。

西郷隆盛以下薩摩軍幹部が、鹿児島・城山で自決したのは半年後の九月二十四日のことでした。

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戦いは約7ヶ月間にわたり、九州4県に及ぶ大規模なものでした。
これ以後、武力では政府に勝てないと考えた士族たちの反政府運動は、言論による自由民権運動へと変わっていきます。

それにしても薩軍はなぜ、熊本城を攻撃したのでしょうか
北九州に出て門司、小倉をおさえるとか、
海路大阪へ出て大阪城を本拠地に反政府党を組織するとか
すれば、この乱の成功の可能性は、はるかに高かったのでは、
という指摘がたえません。

この問いに対し、司馬遼太郎さんは、
関ヶ原以来の薩摩隼人の伝統的目標が、肥後の熊本城だったから、と答えています。

豊臣秀吉が、薩摩のエネルギーが噴出することをおそれ、噴出口に石でふたをする意味で、
加藤清正を肥後に置き、熊本城という巨大な城を築かせた。
このときから薩摩人にとって、「肥後の加藤」が仮想敵になり、
「熊本城」が中央政権の象徴になったので、まず熊本城を攻撃した
ということです。


(追加その2)

西南戦争に動員された新政府軍の兵力は陸海あわせて約6万人。
近代的装備を備えた農民中心の徴兵制度による軍隊が
士族軍隊に勝ったという
大きな歴史的意味を持ち
明治政府は戦争への自信をつけ
日清日露の戦争へと続いていく出発点となりました。

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また、近代日本への道筋をだた一人でつくりあげたといってよい希代の政治家、大久保利通は
西郷自刃の9ヶ月後
西南戦争に呼応し挙兵を計画するものの
時期を逸してしまった石川県士族らによって惨殺されます。
まるで西南戦争の復讐劇のように。

士族をはじめ、多くの国民の反感をかいながらも、
日本の将来を考え、必要なことを独裁に近い形で推し進めた大久保利通。
その決断力と果断さは、まさに彼が天性の政治家であったことを示しています。

為政清明(いせいせいめい)~政治をするには、清くかつ明瞭でなければならない~
を座右の銘とし、
政治に私心を持ち込まない厳しい姿勢、またその威厳と冷徹さから
「北洋の氷塊」と形容された大久保。

wikipediaによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89

「金銭には潔白で私財を蓄えることをせず、
 それどころか必要だが予算のつかなかった公共事業には私財を投じてまで行い、
 国の借金を個人で埋めていた。
 そのために死後は8,000円(今の金額で1億円以上)もの借金が残ったが、
 大久保の志を知っていた債権者達は借財の返済を遺族に求めなかったという。
 政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、
 さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした」
ということです。

大久保は、
「明治維新は30年でやるつもりでなければ。
 最初の10年は兵事多くして創業の時期である。
 次の10年で内治を整え民産を殖する。国内を整える時期である。
 最後の10は後進に任せる」
と言い
数十年間は専制政府による政府主導方式がなければ、
文明を開くことができないと考えていました。

大久保も、木戸孝允のように憲法を制定し議会を開く、
という民主主義に相応の理解はありましたが、
明治初期の日本はそれ以前の段階であり、
まだ無理だと考えた上での専制政治でした。

大久保はなぜ、私学校の壊滅を狙ったのでしょうか?
ともに明治維新を推進してきた無二の親友、西郷が中心となってつくった私学校を。

司馬遼太郎さんは「翔ぶが如く」の「内務卿の靴音」の章で、
木戸孝允が「鹿児島県だけがなぜ治外法権のごとく政府から屹立しているのか」と
「大久保自身の力をもってしても、どうにもできない鹿児島県の現状を執拗に批難し」
「大久保の持つこの患部を錐でえぐり、塩をすりこむような態度で7時間も論難した」

そして「木戸孝允の意見は大久保も同論の正論であり、
これを解決せねば大久保がつねづね言っている公平ということが、うそになり、
他のいかなる施策についても凛乎とした態度がとれなくなる」
と、大久保の苦しい胸中を推しはかっています。

大久保は、日本の将来をつくる政策実現のために、公平凛乎とした態度をとらざるをえず
木戸の攻撃もあり、西郷との友情を犠牲にせざるをえなかったのでしょう。

「征韓論の激突は、明治政府を崩壊させ、日本中を大混乱におとしいれた。事態の収拾を誤ることがあれば、この国は一気に滅ぶであろう」
まさに、「翔ぶが如く」の第二巻の裏表紙紹介文にある状態におちいってしまった日本。
この危機的な事態を無事収拾できたのは、天性の政治家、大久保利通がいたからこそでしょう。

塩野七生さんが『再び男たちへ』で
「優れたリーダーとは、良き結果を得るためには良くない手段に訴えるくらい、
 眉ひとつ動かさずにやってのけられる人種のことである」
と書かれています。

大久保利通はまさに日本にはまれな「真の優れたリーダー」でした。



大久保が紀尾井坂で暗殺されたとき、
2頭立ての馬車の中で読んでいたのは、洋行中に西郷からもらった手紙だったそうです。

方向は違えど、国を思う情熱が2人を相争わせてしまった、としか言いようがありません。

大久保利通の銅像が鹿児島に完成したのは、西郷隆盛の銅像が完成したおよそ40年後
西南戦争から100年たったときでした。
「西郷さんを殺した男」として、
当時の鹿児島では大久保の銅像をたてることに反対する人がまだまだ多かったそうです。






熊本市立熊本博物館

熊本市立熊本博物館のwebサイトを開いたら、
理工展示室のエネルギー関係の展示が、平成24年6月に撤去されていました。

http://webkoukai-server.kumamoto-kmm.ed.jp/web/jyosetu/rikou/douryoku.htm

この博物館の展示で、
ワットによる蒸気機関の改良の中心が復水器や回転運動であることを知り
それらがいかに大きな役割を果たしたのかを知ることができました。
わかりやすく説明してある貴重な展示だったのに残念です。

せっかくですので
撤去されてしまった説明をもとに
蒸気機関についてまとめてみました。

中学校の歴史の教科書には、イギリスの産業革命のところで
ワットの蒸気機関が必ず載っています。

蒸気機関は、蒸気の圧力を機械の運動に変えるしくみで、
電気がなかった時代に、機械を動かす動力として画期的なものでした。

人類史上最初に登場する蒸気機関は、
一世紀頃、古代ローマのアレクサンドリア(エジプト)で活動したヘロンが考案した
「アイオロスの球」とされています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%81%AE%E7%90%83

* ヘロンは、高1数学で学習する、「三角形の3辺の長さから面積を求めるヘロンの公式」
  で有名です。

蒸気機関の仕組みは、おおざっぱに言えば、
気体を熱すれば体積が増えて膨らみ、冷やせば体積が減って収縮することを利用し
(中1の理科でよく簡単な実験をします)
ボイラーで発生させた蒸気の圧力を変えることでシリンダー内のピストンを動かすというものです。

蒸気機関といえばワットと教わるので
ワットが発明したように思ってしまいますが
実用的な蒸気機関を最初につくったのは、ニューコメンという人のようです。
教科書をよく読むと、「ワットが改良した蒸気機関は」と書いてあります。

18世紀、イギリスでは鉄をつくるために大量の石炭を必要としましたが、
石炭を掘るために炭坑を掘ると、水が湧いてきます。
この水を汲み出すために大量の馬を使い、昼夜通して排水ポンプを動かし続けましたが、
馬の飼育費がかさむために、なかなか採算がとれませんでした。
どうすれば、もっと安く排水ポンプを動かし続けられるか。
解決のために発明されたのが蒸気機関です。

ニューコメンが1712年に考案した蒸気機関のしくみは
図の左側「ニューコメンの機関」を見てください。

(以下、写真は熊本博物館で撮らせていただいたものです)


画像の説明

ボイラーで水を沸騰させてつくった蒸気をシリンダーに導き、
蒸気の圧力でピストンを上に動かします。
その後、シリンダーの中に 冷たい水を直接吹き入れて蒸気を冷やすと、
冷えた蒸気は水に戻り、シリンダーの中はほぼ真空になり気圧がさがります。
するとピストン上部の大気の力でピストンが下がります。
(この図では、シリンダにたまった水を排水する管が省略されています)

ニューコメンの蒸気機関は画期的な装置でしたが、
冷たい水で蒸気を冷やすとき、シリンダも冷えてしまうので、効率が悪く、
掘り出した貴重な石炭の1/3以上が
排水ポンプを動かすための蒸気をつくるのに消費されてしまいます。

この効率を改良したのがワットでした。
ボイラーから蒸気が入ってきて、その圧力でピストンが上がるとき、
シリンダが冷えているので、蒸気のエネルギーがまず、シリンダを暖めるために使われ
それから、ピストンを動かすのに使われます。

ワットは、
「シリンダを暖めたままにしておけば、蒸気のエネルギーがムダにならない。
 どうすればシリンダを暖めたまま、ピストンを動かせるのか」
を考え
蒸気をシリンダ内で直接冷やさず、
冷たくしてある外部の復水器(コンデンサ)に蒸気を吸い出せば、
シリンダ内が暖かいまま、ピストンを下げることができると考えつきました。
図の右側「ワットの機関」です。

* wikipediaによると、日本ではコンデンサは「蓄電器」ですが、
  英語圏では、「高温で気体になった物質を冷やして液体に戻す装置」を指すそうです

シリンダ自体を暖めたり冷やしたりする必要がないので、蒸気の効率が4倍以上高まりました。
ワットの改良は、すぐにあちこちの鉱山や工場で取り入れられました。

(追加)

画像の説明


ワットはさらに、シリンダー(筒)内部で上下運動するだけのしくみから、回転運動をさせるしくみを開発します。
これによって、ピストンの上下運動で水をくみ上げるだけではなく、
回転運動によって、それまで水車や馬で回していた、さまざまな機械を動かすことができるようになり
工場の動力として、蒸気機関が普及します。

それまでの動力源のひとつは水車で、水車を使う工場は川に沿って立地せざるをえませんでした。
蒸気機関の出現により、川に関係なく工場が立地できるようになり、
蒸気機関はこの点からも、工業の発展に大きく寄与しました。

画像の説明

画像の説明

画像の説明
  ↑ 右下が遊星歯車  大きい車輪のようなものがはずみ車


画像の説明
  ↑ 左の円筒がシリンダー

そして様々な機械に蒸気機関が応用されるようになり、
蒸気船の発明(1807 年)や蒸気機関車の発明(1804 年)によって
蒸気機関は船舶や鉄道の動力にもなっていきました。

* 1804年の蒸気機関車は、、
  ボイラー部にあたるドラム缶を横に倒したものに、4つの車輪をつけたような形でした。
  馬が台車を引く線路で走らせましたが、ボイラーが重すぎてレールを破壊するなど実用化
  には至りませんでした。(ペナダレン号)
http://www.walesjapanclub.com/column/yoshiga-blog/59-yoshiga16.html
  しかしその後、フランスにナポレオンが登場し、対仏戦争のため産業用の馬が徴用され、蒸
  気機関車が見直されたこともあり、実用化が進みました。
* 蒸気機関車のしくみについてわかりやすいのは以下です。
http://www.mtm.or.jp/uslm/learning/detail/structure/index.html

ワットの貢献をたたえて、
1889年、仕事率や電力の単位としてワットの名にちなんだ、〔W〕が採用されました。

* ワットは、蒸気機関の能力を示すのに、標準的な荷役馬1頭のする仕事を基準としました。
  1馬力というのは馬が継続的に荷を引っ張る際の仕事率を基準にしています。
  仕事率の単位である馬力やWは、馬から蒸気機関への動力の移り変わりを示しています。

産業革命や工業化の原動力となり一時代を築いた蒸気機関でしたが、
ボイラーなどの大きな設備が必要で小型化が難しいこと、
重い割に出力が小さいこと
等から
輸送機械に関しては、燃料をシリンダの中で燃やす内燃機関(自動車のエンジン)や電気モーターによる電気機関に、徐々にその地位を奪われていきました。


(追加 その2)
以前、長崎を歩いていて石橋が多いと感じましたが、
熊本も有名な通潤橋をはじめとして石橋が多いようです。

http://find-travel.jp/article/2770

少し気になって調べてみたら
こんな事情があったのですね。

http://www.koan.co.jp/ijinden/vol7_hasimoto.pdf

石橋はバラバラの石を特別な接着剤を使わず、組み立てています。
なぜくずれないのか不思議でした。
熊本博物館の展示で納得しました。

画像の説明

アーチ型の構造物には、引張力(物体を引き伸ばそうとする力)が生まれず、圧縮力しか生じない。
そして、石は引っ張りや曲げには弱いが、圧縮にはめっぽう強い。
ということのようです。

アーチ橋は
まず、大工さんが、支保工(しほこう)というアーチの形になるように木のほね組みをつくります。(写真のプラスチック板が支保工にあたります)
画像の説明

次に、石工さんが、輪石(リング石)を積みます。
(写真の1から6の木のブロックが輪石にあがります)
最後に、要石をアーチの頂点に入れてから、支保工をはずします。
(写真の7のブロックを入れてから
 プラスチック板を下げていきます)
画像の説明

 

http://www.jst.go.jp/csc/virtual/live/arch/himitsu/index.htm

日本の石橋の9割以上が九州に集中しており、
その九州の石橋の1/4は江戸時代までにつくられていますから
150年以上現役で活躍していることになります。
(もっともローマの水道橋は2000年以上にわたって活躍しています)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB

重機のない時代にこれだけのものをつくりあげた
当時の職人さんの技術力にただただ感服するのみです。

せっかくなので熊本城と水前寺公園を1枚ずつ。
画像の説明

画像の説明
東海道五十三次の景勝を模したといわれる水前寺公園ですが
残念ながら富士山以外わかりませんでした。

バスの中には熊本弁講座が。

画像の説明画像の説明

九州は中国や韓国からの観光客が多いことがわかります。

横浜市水道局 横浜水道記念館

海外旅行に行ったら水道水は飲まないのが普通です。
世界の国の中で、水道水がそのまま飲める国はそれほど多くありません。
ヨーロッパ諸国、合衆国、カナダ、オーストラリア、韓国等は水道水をそのまま飲めるといわれていますが
水道水を飲み水として使用することはあまりないようです。

そもそも水道のない国も多くありますし、
水道があっても不衛生な水が出てくる国もたくさんあります。

そんな中、
日本の水道普及率は97%以上と高く(残りの3%弱の大部分は離島)
さらに水質の安全基準が厳しいので、世界有数の安全な水だといわれています。

水道水に関しては日本はかなり恵まれているといってよいようです。


本格的な近代水道が日本で最初に生まれたのは、横浜です。

知り合いが上星川に引っ越してきたので、
引越祝の訪問前に
横浜市水道記念館に立ち寄りました。
昭和62年に建てられたとは思えない
きれいな建物でした。
画像の説明

世界史で学習しますが、
日本が弥生時代だった紀元前後につくられ始めた
古代ローマ帝国の水道は、
古代土木建築で最も偉大なものの1つと言われています。
なんと、2000年たった今でも現役で使われている!!!
ことからもその偉大さがわかります。

* 弥生時代というと、稲作の開始と卑弥呼の時代というイメージがありますが、
  近年、稲作の開始は縄文時代と認定されました。
  現在の中学校の教科書でも、「すでに縄文時代末期に大陸からイネがもたらされ、栽培がお
  こなわれていました」(育鵬社版)との記述があります。

* Wikipedia によると、
  古代ローマの水道の87%は地下を通っており、
  1キロあたり34センチの傾斜で、
  非常に効率よく大量の水を運んでいたということです。

日本では、江戸の町が、
当時、世界で最も進んだ水道設備を持っていました。
1600年頃15万人だった江戸の人口は、
1700年頃には100万人を超え、世界一となっていました。
(ロンドンで90万人弱、パリで60万人弱くらい)
その人口の6割に、延べ150㎞に及ぶ上水が行き渡り、規模は世界一だったそうです。

* 昔、江戸時代に玉川上水をつくった玉川兄弟の話を読んだことがあります。
  多くの困難を乗り越え、最後には私財まで投入して完成。
  江戸に暮らす人々の飲み水や防火用水として活用されました。
  その功績として、一介の町人だった兄弟に与えられたのは
  武士しか許されていなかった苗字をなのることでした。

しかし、ローマの水道も、江戸の上水も、
川等の水を取水し、土地の高低差を利用し水を得るというしくみで
浄水処理は行われていませんでした。

蛇口をひねるといつでもきれいな水が出てくる近代水道は
ここ横浜が発祥の地です。
* アイスクリーム、クリーニング等横浜が発祥の地となっているものは他にもたくさんありま
  す。

現在約370万人と人口が全国一の市である横浜市。
* 2位は270万人の大阪市です。
今から約150年前の
1859年6月2日に横浜が開港場となったことから
87戸余りの一寒村であった横浜村が
日本の新しい玄関口の一つとして
大都市への道を歩き始めます。

横浜の人口は日増しに増加し市街は急激に発展。
住民は水を求めて井戸を掘りましたが、
横浜は海を埋め立てて拡張してきたので良質な水に恵まれず、
ほとんどの井戸水は塩分を含み、飲み水には適しませんでした。
良い水が出る井戸は
当時2つしかなかったといわれ
明け方から長い行列に並んで水を汲んだり
近くの村から湧き水を運んだり
水売りから水を買うなど
人々は、たいへんな苦労をしました。


↓水売り
画像の説明


(追加)
1873年(明治6年)
木の樋(とい)を使った水道が横浜商人の出資によってつくられました。
江戸の玉川上水と同じやり方でした。
多摩川の水を水源とする、かんがい用の用水から
現在の川崎市鹿島田付近で水をとりいれ、
地中に木の樋を埋めて水を通し
「水道井戸」からくみ上げて使うものでした。
しかしこの水道は、途中で水が漏れたり
塩分を含む水が入ったりして
安心して使えず
明治15年頃には使用にたえない状態になってしまいました。
* この木樋水道の出資者は
  生糸貿易で財をなした原善三郎や茂木惣兵衛(野毛山公園は彼ら豪商の邸宅跡、三溪園は原
  家の所有地でした)
  横浜港の埋め立て事業や外国人邸宅の建築をてがけ、高島町の名が残った高島嘉右衛門、
  鹿鳴館、帝国ホテルなどの建築をてがけ、建築、化学、製鉄、食品等の一大財閥を築き上げ
  た大倉喜八郎(現在の大成建設、ホテルオークラ、東海パルプ、サッポロビール等)
  他、そうそうたるメンバーがそろっていました。

↓木樋水道
画像の説明

↓上図の水道井戸、市内給水用木樋、給水引込用木樋
画像の説明

水不足に苦しんだ人々は
汚れている井戸水や川の水さえ用いました。
そのため、明治10年、12年、15年、19年とコレラが大流行しました。
安心して飲める水、おいしい水、きれいな水
当時の横浜の人々は日本人も外国人もそれを願いました。
* 明治時代のコレラによる死者の総数は37万人で、これは日清、日露戦争の死者合計約10
  万人の4倍近くになります。

このため神奈川県知事は
中国・広東や香港で 水道工事を成功させていた
英国陸軍工兵士官のパーマーを顧問とし
明治18年(1885)近代水道の建設に着手。
相模川と道志川の合流点(相模湖近く)に取入口を造り
蒸気機関で16m揚水し(海抜124m)
43㎞離れた野毛山(海抜50m)まで水道管を引き
高低差を利用し自然流下させました。
野毛山にはろ過をするための沈殿池や貯水池を建設し、
市内に配水するしくみを、
明治20年10月に完成させました。
水道管の敷設ひとつをとっても
当時は機械がないので、丸太で三角錐の枠組みをつくり
鉄でできた重い水道管を人力でつりさげて地中に埋めていきました。
2年で完成したのは当時の技術からすると驚異的なことでした。
工費107万円は横浜市の年間予算の5年分にあたり、
ほぼ全額、国からの借入金でまかなわれました。

近代水道の完成により
コレラの恐怖が去り、
水汲みの重労働からも解放される日がやってきました。

ただし、当時はまだ家庭内に蛇口を引ける家は少なく、
道路の決まった場所に共用栓が設置され、
そこから飲み水、洗濯水等に利用する水の供給を受けるのが一般的でした。


(追加 その2)

近代水道は有圧送水、ろ過浄水、常時給水の3つを特徴とします。
川などからとりいれた水をろ過して
水道管を用いて圧力をかけて水を送り
(給水所から圧力をかけて水を送ることにより、蛇口を開けばいつでも水が出てきます
~蛇口は水を「止めておく」装置です)
いつでも使うことができる水道です。

また、次の3つが近代水道の三大発明といわれます。
「鋳鉄(ちゅうてつ)管」
  水道管に使われる鉄の管。横浜水道ではイギリス等からの輸入品を使いましたが、明治の終
  わり頃には国産品も使えるようになりました。
「砂ろ過」
  ろ過池の50㎝~60㎝の砂層、砂利層に水を通し、層の表層部に繁殖している微生物の浄
  化作用で濁りや細菌を取り除き、水をきれいにする方法。
* 中3の理科で学習します。川の水がきれいなのは、水中の細菌が汚れを分解するからです。
  ただし、大量の排水が急激に流れ込んだりして汚れが多すぎると、細菌が分解しきれなくな
  るため、汚れが残ります。
「ポンプ」
  水をくみ上げる井戸のポンプを想像しますが
  水道では、水に圧力をかけて送り出す役割をはたしています。
* ポンプで水をくみあげることができるのは、中1の理科で学習する大気圧のおかげです。
* 停電すると水を送り出すポンプが動かなくなくなるので、断水します

近代水道が都市の大動脈として働きだしたことで、消火活動ができるようになりました。

水道ができる前の消火活動は
江戸時代のように、
火事が燃え広がらないよう、周りの家を壊す「破壊消火」が主でした。
そのため、消火活動の中心である火消しは、
土木工事や建築の職人さんであるとび職の人が中心でした。
江戸時代の消火道具に鳶口(とびくち)や刺又(さすまた)が展示してあるのは、
それらを使って家屋を引き倒し、「破壊消火」をしたためです。

「龍吐水(りゅうどすい)」とよばれる木製の手押しポンプもありましたが、
10数メートルしか放水できないため、
燃える建物に水をかけて消すにはほとんど効果がなく、
建物を壊している火消したちに水をかけて、
火傷をしないようにするためのものでした。

  ↓龍吐水
画像の説明

* 1月初めに消防関係者により行われる出初め式で梯子のりがおこなわれるのは、
  破壊消火の際、鳶職の人がはしごを使って作業を行うことが多かったなごりですね。

明治17年頃、蒸気機関を使って高出力で大量の水を放出できるポンプが輸入されました。
しかし、石炭で火をおこすので、放水のための蒸気を得るまで20分もかかり、
放水できるまで待ってから、出動していました。

放水に用いる水は、水道管から供給されますが、
水道管にホースを接続させるのが消火栓です。
わが国で初めて消火栓を設置したのは、
明治20(1887)年10月に水道敷設工事が完成した横浜市であるといわれています。

消火栓の中には球が入っており、水の圧力で上に押し上げられて水が止まっています。
消火活動をするときには、ハンドルをまわして消火栓球を下に押し下げて水を得る仕組みです。
ラムネの栓に使われているガラス球と同じ原理です。

           ↓左 消火栓の原理             ↓右 消火栓開閉器
画像の説明画像の説明

消火栓の設置と蒸気ポンプの性能向上・国産化が進んだことにより、
明治後期に至ると、それまで数多く発生していた大火が、減少していきました。

* ラムネびんの口は、もともとビー玉が入る大きさになっていて、ビー玉を入れてから加熱し
  て口を細くしぼるそうです。
* 明治時代から消防は警察の管理下に置かれます。これは火事場泥棒を防ぐためです。
* 大規模な火災になると、大量の水が放水されます。
  この水道料金は、火災を起こした人や消火活動をおこなった人ではなく、水道事業者が負担
  します。



 ↓記念館で、ひときわ目立つ洗浄水槽。
画像の説明
ろ過池(ろかち)を洗浄するための水をためてある水槽で、中央から地中に降りている太い管を通してろ過池に水を送り、2~3日に1回、ろ過池を洗浄します。


知人の新居のバスタブの中には
水が入っている2Lのペットボトルが5本。
「水道代の節約になるぞ」と教えられましたが
確かに
水は大切に使わなければ、と思った水道記念館でした。

いのちの旅博物館~北九州市立自然史・歴史博物館

JR小倉駅から、快速で10分、スペースワールド駅下車、徒歩5分です。

中学校の歴史で学習しますが、日清戦争の賠償金でつくられ、1901年に操業を開始した、官営八幡製鉄所を前身とする新日鉄の工場跡地に、テーマパークのスペースワールドと向き合って建てられています。

38億年前の地球上に最初の生命が誕生して以来、多くの種が出現し、発展し、絶滅してきました。
この「いのちの旅博物館」では、地球上に現れた生命のたどってきた長い道のりをふりかえることができます。



画像の説明

画像の説明


【46億年前に地球が、38億年前に地球上に生命が誕生】
今から46億年前頃に地球が誕生したといわれています。

グリーンランドでは38億年前の地層がみつかっており、最古の生命の痕跡とみられるものも、その38億年前の地層でみつかっています。
その痕跡は黒い炭素のかたまりのしみで、生物がとりこんだ二酸化炭素の濃縮されたものだとわかり、生物の存在が推定されています。

その後、藍藻(らんそう)類(シアノバクテリアという細菌の一種。高校の生物基礎の教科書の最初にでてきます)が繁栄し、光合成のはたらきで海中や大気中に酸素を生み出していきました。


【地球誕生を1月1日午前0時、現在を12月31日の真夜中の12時とすると】
1月12日頃、月ができる(月がどのようにしてできたかは、中学の国語の教科書にあるように
       諸説あります)
3月 5日頃、地球上に生命が誕生
その後、藍藻が繁栄し、酸素濃度が高くなり、大陸が形成され、
11月20日頃、現代の生物の祖先となる多細胞生物が突如一斉に登場、
        生物史上最大といわれる多様性が進み「カンブリア爆発」とよばれます
        古生代の始まりです。

最初の生命が発生した38億年前から、30億年以上(8ヶ月以上に相当)をかけて生物はゆっくり進化しましたが
その後わずか1000万年(3日に相当)に満たない時間で突然進化、多様化し、現動物のすべての原型が出現しました。

なぜ、この時期に生物が急に多様化したのでしょうか?
生物が「眼」を獲得したから、という説があります。
はじめて「眼」を持つ動物化石がみつかるのが、カンブリア爆発の頃です。
「眼」を持つ生物は、持たない生物よりも獲物を獲得することに容易であり、敵から身を守ることも容易だったと思われます。
その結果、襲われる方は、防御用の殻やトゲ、逃走用の足やひれを獲得。襲う方は、強力な歯や追跡用の足やひれを獲得し、生物が急激に多様化したというのです。

なお、カンブリア紀の生物たちは奇妙な姿をしており、カンブリアンモンスターと呼ばれます。
http://matome.naver.jp/odai/2133563004552280101
全長2メートル、昆虫の触角のような触手だけで10センチ、体からビローンと飛び出した眼を持つアノマロカリス
などがその代表です。

11月27日頃、生物が陸上に進出
陸上に進出」した理由としては
① 陸地には栄養価の高い昆虫などが繁栄しており、それらの小動物を食べるため
② 魚類の繁栄により、浅い海が魚類であふれ、窮屈になったため
③ 体長15mにわたる大きく強い魚類が多数おり、避難場所が必要だったため
④ 日光浴をするため
などがあげられています

12月10日頃、生物の95%以上が絶滅し、
        古生代は終わりをつげます

地球史上最大の絶滅が起きた原因は、はっきりしていません。
当時地球は、
世界中のすべての大陸が1カ所に集まっており(超大陸パンゲア)
海も1つしかありませんでした。(超海洋パンラッサ)
  *昔習った、ウェゲナーの大陸移動説(例の南アメリカ西海岸とアフリカの東海岸の形が一
   致するというアレ)です。南半球に固まっていた大陸はゴンドワナ超大陸とよばれました
   が、その後分裂し、再度集合したのが超大陸パンゲアです。

大規模な火山活動があったり、隕石がぶつかったりして、大量のちりが舞い上がって大気を覆い、日光を遮断。光合成が不可能になり、海中から酸素が消えて、絶滅していったという説があります。

環境の異なるいくつかの海があればよかったのですが、たったひとつの海しかなかったことが、その海にあわせて進化してきた生物たちの絶滅をまねいてしまったと考えられています。
生物も私たちの社会も、多様化が大切ですね。

絶滅を生き延びた生物が繁栄し、
陸上では多くの爬虫類がひしめきあうようになり
中生代に入ります
12月15日から26日にかけて恐竜の時代を迎えます。
そして巨大隕石の影響等で恐竜が絶滅し、化石の王様アンモナイト(例のらせん型の殻を持つヤツです)も絶滅。
中生代は終わりをつげます

* ちなみに、ゴキブリが出現したのは古生代の後半で、古生代の終わりの大絶滅や中生代の終
  わりの恐竜など爬虫類の大絶滅をくぐりぬけ、恐ろしいほどの生命力で生き続けています。
  その姿を変えずに3億年!以上生き続けているため「生きた化石」ともよばれます。古生代
  の頃は体長10㎝のゴキブリがいたり、最近では「ペ○○グ超大盛やきそば ハーフ&ハー
  フ激辛」の中に登場するなど、話題にことかかない昆虫です。

哺乳類の時代である新生代に入ります
そして12月31日の夜7時に人類の祖先が誕生し
夜11時40分頃に現代人の祖先がアフリカで誕生しました。

キリストが降誕したのが、午後11時59分40秒前後になりますから、
歴史の教科書で詳しく扱っているのは
地球が誕生した日を1月1日午前0時とすると
12月31日の最後の20秒ということになります

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(以下追加です)

以下の写真は、「いのちの旅博物館」で撮らせていただきました。

古生代の中頃、両生類が出現し生物が陸に活動の場を広めていった時期。
そのころの海は「ダンクルオステウス」という巨大な魚が支配していました。
ダンクルオステウスは板皮(ばんぴ)魚類(アゴのある魚)とよばれるグループに属し、 アゴという構造をもつことによって、他の動物を襲って食べていたと推定されます。サメ類と多くの共通点があります。
ダンクルオステウスは板皮魚類の中でも最も大型で、頭部以外の体はわかっていません、その体長は大きいものでは9mもあると推測されています。
画像の説明

古生代の末期、体長3mほどの、恐竜に似た生物がいました。「ティメトロドン」です。
http://biggame.iza-yoi.net/pelycosaurus/Dimetrodon.html

最大の特徴である背中の帆は、求愛時に雌に対してアピールに使用するディスプレイと言われています。
また、この帆には多数の血管が張り巡らされ、大量の血液が供給される様になっており、『熱交換器』として機能していたと考えられています。
体温が低い朝方には日光を浴びて熱を吸収して血液を温めることで体温を上げて活発に行動し、逆に体温が上昇し過ぎた時には日陰で帆に風に当てることで、身体を冷やしていたようです。
この体温調節機能があったことで、他の動物よりも素早く行動することが可能となり、獲物を捕まえるのに有利だったと考えられています。
画像の説明

哺乳類の頸椎(けいつい、くびの骨)は原則7個あるそうです。キリンのようにくびが長い場合は、ひとつひとつの骨が長くなり、(写真下左)くびが短い哺乳類の代表であるクジラでは、薄い板のようになっています。(写真下右)
小さいクジラであるイルカは、曲芸のイメージがあるためか、くびが動く感じがしますが、クジラがくびをかしげるしぐさは。。。。想像できません。

画像の説明
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エンバイラマ館 
中生代恐竜の世界の環境復元です。動きがあり、鳴き声等も聞こえ、なんか妙にリアルでした。
https://www.youtube.com/watch?v=J3zFL5LSsB4
エンバイラマとは、エンバイアメント(環境)+ジオラマ(立体模型)を合わせた言葉で環境模型という意味だそうです。

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← なんとなく笑える骨格ポーズ

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映画「ナイトミュージアム」のように、深夜になると楽しそうに踊っているかもしれません

山形県立博物館教育資料館

山形に行ったことがなかったので、仙台に行った帰りに足をのばしました。
新幹線で行こうと思うと、一度福島まで戻らないといけません。
また在来線だと仙山線で約90分かかります。
便利で速いのは直通高速バスで、仙台駅~山形駅を約60分で結びます。
高速バスで往復しましたが、山形に向かう朝7時半頃はかなり混雑しており、1台待ちました。

資料館の建物は、1901年に建てられた旧山形師範学校(先生を養成する学校、今の大学の教育学部にあたります)のものをそのまま使っています。
階段や廊下等せまい部分が多く、当時の日本人が小柄だったことがわかります。
私が好きな作家の藤沢周平さんも、ここの卒業生です。

http://www.yamagata-museum.jp/education-museum/

明治以降の教科書の展示や授業風景の再現、その他教育の歴史がテーマ毎に紹介されています。

通常、展示用ガラスケースに入れられ、開かれているページしか読むことができない明治時代から戦時中の教科書を、すべて実際に手にとって1ページずつ読むことができます。
3時間近くかけて展示されている教科書の大半を読みました。
世界の国々に肩を並べようとする明治政府の懸命さが伝わってきます。
また、今使われている教科書より優れている点も多くあるように思います。

以下写真は、山形県立博物館教育資料館で撮らせていただいたものです。

小学校のカリキュラム。
8歳で日本地理、9歳で日本歴史と世界地理、世界歴史を学習。
さらに12歳で平方根(現中3)13歳で対数(現高2)を学習。
明治時代の意気込みを感じます。
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まずは歴史の教科書から。今は完全に「神話」とされている部分です。
漢字にルビがふってあります。
今の小学校の教科書は、「該当学年より上に配当された漢字は、ひらがなで示されること」というきまりのせいで、「砂はま」とか「とつ然」とか不自然なものになっています。「砂浜」「突然」と書いて、ルビをふればよいのに、と思います。

画像の説明画像の説明

続いて、次回の指導要領改訂時に「教科」として復活する予定の、修身(道徳)の教科書。
昔の教科書の文章のほうが格調高く感じられませんか?

画像の説明画像の説明

(以下追加です)


英語の教科書。今使われている浅薄な会話重視の教科書よりよほど力がつくと思います。
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算数の教科書。
伸ばす記号「―」の活字がなかったのか、メートル、アールがメ|トル、ア|ルになっています。
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「防毒マスク」と、時代を感じさせる工作の教科書。どれだけ防げるのか。。。
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美術の教科書。
たぶん、これをお手本にして模写させたのではないでしょうか。
最初はまず真似ることから。すべての基本です。
ただ自由に描かせているより、はるかに基礎が身につくと思います。
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明治5年の学制公布によって、全国で小学校の設立と就学の奨励に力が注がれました。しかし当時は小学校の建設費や学校で使用する教材の費用はほとんど父母の負担であり、かつ農村では労働力を奪われてしまうので、小学校の設立や、就学の奨励は困難を極めました。
就学率が向上してきた明治17年でも、山形県内の男子児童の就学率は68%、女子児童の就学率は19%でした。

左の写真は就学牌といい、就学督励のために身につけさせました。(明治前期)この札をさげていない子どもは、巡査が就学を勧めました。




太平洋戦争末期に、中学校以上の生徒や学生が軍需産業等に動員された「学徒動員」。
山形から遠く離れた神奈川まで、多くの生徒が動員されていたんですね。
画像の説明

横須賀市自然人文博物館

昔お世話になった方の教室が横須賀の京急県立大学駅近くにあり、その教室にうかがったときに近くにあった横須賀市自然人文博物館に寄りました。

入館料無料なのに、充実した内容でした。
3Fのラウンジからの眺めもお勧めです。

受付の方のお話だと、横須賀市も財政的に厳しいようで、修復したりすべきところが予算の関係で、なかなか実施できないようです。

http://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/

以下写真は、横須賀市自然人文博物館で撮らせていただいたもので、
文章はさまざまなwebサイトをまとめたものです。

【東京湾付近海底図】

海底の等高線にあたる等深線(水面下の等しい深さの点を結んだ線)が立体化されています。伊豆大島の手前で傾斜が急になっていることがよくわかります。

画像の説明

東京湾は琵琶湖に比べ面積は1.5倍近くありますが、容積は琵琶湖の半分強しかありません。それは琵琶湖の平均水深が41mなのに、東京湾の平均水深が17mと半分以下しかないからです。

東京湾の神奈川県寄りには、凹地が大きく蛇行しながら繋がっています。この凹地は、約2万年前の氷期に、東京湾全域が陸であったころ、多摩川、荒川、江戸川(利根川)等が合流して太平洋に流れ下った大きな河川の痕跡で、この河川は『古東京川』と呼ばれています。

古東京川が神奈川県寄りを通っていたために、神奈川県寄りで東京湾の水深が深くなっています。このことが、東京湾の入り口から横浜や横須賀への船によるアプローチを容易にし、幕末と同時に横浜と横須賀が港として発達を始めた地形的な要因となっています。

海上保安庁の海洋台帳 http://www.kaiyoudaichou.go.jp/
第3管区海上保安本部のwebサイト
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/sodan/news/2006/1810tokyo-kaitei.htm

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【電髪(でんぱつ)】   太平洋戦争の頃のもの。
敵国語(英語)であるパーマネントの言い換え語として「電髪(でんぱつ)」と呼ばれた。

日本では戦時下の1930年代中頃には「パーマネントはやめましょう」と言う言葉が流行語にもなった。
日本の一部の地域の町会では「町会決議によりパーマネントの方は当町の通行をご遠慮ください」と言う立て看板まで設置された実例もあった。
* 日本人ってこういうところが怖いですね。

山野美容講習所(現山野美容専門学校)創設者、山野愛子が日本人初のパーマ技術指導者として日本にパーマ技術を普及させた。

Wikipediaより

画像の説明
【紙芝居】   写真上中央・右
「紙芝居」は、日本独自の存在で、他国に例を見ない。
日本占領を始めたGHQは、当時の日本における"Kamisibai"(紙芝居)の子どもたちに対する影響力に驚いた。

紙芝居では、演じ手(一人)と観客(複数)とが向き合い、実演を通して直接交流することにより盛り上がる。演じ手は観客の反応を見ながら、絵の引き抜き方、声色、台詞回しなど演じ方を自在に変える事ができる
* まさに塾の授業ですね

この双方向性と一体感は、テレビなどの一方通行のメディアでは得られぬ紙芝居の特質である。
* 一方通行で勝手に授業をしているだけのパソコンによる映像授業と、双方向性と一体感を持
  つ生(なま)授業の関係と似ていますね。

よって、紙芝居においては素材の「絵」だけでなく、実演する「演じ手」も重要な要素であり、演じ手の質が紙芝居の効果をはっきり左右することになる。

紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回って、拍子木を打ち、子供を集めて駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。紙芝居のおじさんはたいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。

【レコード】  写真上左  CDの昔ヴァージョンです。
収録時間が直径30cmで5分と、サイズの割には短かったために、作品の規模の大きいクラシック音楽、オペラなどの全曲盤では、数十枚組にもなるものまであり、文字通りの分厚いアルバム状ケースに収納されていた。
今でもディスクのことを「アルバム」と呼ぶことがあるのは、それに由来している。

最初のレコードは円筒状をしていたが、エジソンの円筒式レコード特許を回避するために水平なターンテーブルに載せて再生する円盤式が開発された。円筒式より収納しやすく、原盤を用いた複製も容易になった。

CDやDVDやBDにつながる円盤型メディアの歴史は、このとき始まったと言える。

Wikipedia他より