私が担当します

プロフィール

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 じっくん(塾を始めた初年度、生徒がつけてくれました)
 ・ 公立高校から慶応義塾大学 法学部卒
 ・ 学生時代に民家を借りて塾を始め
   現在まで担当した生徒は1000人以上
   大手塾教室長、教務部長の経験あり
   私立高校、公立中学の教員経験あり

50%

 ・ 母の介護のため一時休業しておりましたが、
   このたび、新しい教室で
   再度現場に復帰できることになりました。
   よろしくお願いいたします。

塾を始めた頃

大学2年の夏

大学2年の夏、友達に誘われアルバイトで個人塾のお手伝いをしました。
当時の中学校ではかなり濃密なカリキュラムが組まれており、それをこなすため学校の授業進度は速く、「新幹線授業」などと言われていました。とうぜんついていけない生徒が多数出てきて、「学校の授業がわからない」という声が多い状況でした。
当時の学習内容がどれだけ濃密だったかというと
 中1の数学で現在高1が学習している、位取りの2進法や5進法、集合と論理、
 中2の数学で同じく現在高1で学習している、連立不等式、図形の内心・外心・重心、
 中3の数学で現在高3で学習している逆関数、
 中1の理科で現在高1の化学基礎で学習しているクロマトグラフィーを用いた物質の分離法、
 中3の理科で現在高1または高2の物理基礎で学習している加速度
など、「ゆとり」が終わった現在の指導要領でも高校に入っている内容を中学で学習していました。
英語も中3で、現在高1で学習している関係副詞や現在完了進行形(現中3で学習している現在完了形は中2で扱っていました)を学習しており、盛りだくさんでした。

軽い気持ちで始めた塾講師でしたが、夏休みが終わる頃にはすっかりはまってしまいました。「先生、わかった」「な~んだ、そんなことだったの」等わからなかったことが理解できたときの子どもの笑顔にはげまされ、どう説明したらわかりやすいのか、どのような問題を間違えやすいのか、なぜそのように間違えるのかなど、必死に考えました。毎日試行錯誤の連続でしたが、1クラス10名前後なので、生徒の理解度が手に取るようにわかります。今度はこう説明してみよう、ここはもう少し類題演習が必要、重要問題を1枚のプリントにまとめようなど、朝早くから教室に行き、帰りは終電ぎりぎりという生活が続きましたが、楽しくてしかたがありませんでした。

夏休み終了後も塾の授業を続けたいと思っていましたが、自宅からアルバイト先の教室まで片道1時間半ほどかかり、教材研究や模擬授業(講師どうしが生徒と先生役になり、わかりにくい単元の導入部分の工夫や、授業中の集中のさせ方などを練習します)に熱中し、ちょっと油断していると終電に遅れてしまいます。

「先生、わかりやすく教えてくれてありがと。2学期も教えてくれるんだよね」と言ってくれる生徒たちに対して申しわけない気持ちでいっぱいでしたが、いろいろな事情を考え、ひとまずその塾でのアルバイトは夏休みで終わりにすることにしました。

大学の友人と民家を借りて塾を始める

9月の試験が終わった後、仲のよかった友達2人と塾の話をしているうちに、「自分たちで塾をやればもっとよい塾がつくれる」と意気投合。
3人で教室として使える場所を探すことになりました。
最初ビルのテナントに入ることも考えましたが、資金がまったくないので却下。
友人・知人のつてをフル動員して、場所を探しました。

1ヶ月ほどたった頃、高校の同級生の親戚が、空き家を持っており、塾の教室として貸してもよい、とのことでしたので、3人で見に行きました。
築50年近くのかなり古い建物でしたが、壊す予定だったので、自由に使ってくれてよいとのことでした。
近くに住宅公団が建てた当時日本最大のマンモス団地があり(確か150棟近くあったと思います)、家賃もかなり安くしてもらえたので、さっそくそこを借りて塾を始めることにしました。

3間に台所、風呂がついた平屋です。2間を教室、1間を職員室というか、自分たちのたまり場にしました。(生徒が増えたのですぐに教室になってしまいましたが)
畳の部屋だったため、あちこちから集めてきた座り机を置いて、生徒は座って授業を受けます。
黒板は、新しい教室に移転する塾に頼んで古い黒板をもらい、自分たちで小さく切って設置しました。
宣伝は、ガリ版刷の簡単な開校の案内を電柱に貼っただけでしたが、30名近くの生徒が集まり、11月に塾がスタートしました。

* 今は、電柱にビラ等を勝手に貼るとたいへんなことになりますが、当時は、おおらかで、何
  も言われませんでした。もちろん、開校1ヶ月後くらいにはすべて剥がしましたが。
* 当時は、現在に比べ、塾の数は1/3以下、中学生の数は1.5倍いました。加えて、
  高校進学率が9割を超え始め、高校増設が追いつかず、「塾に行かなければ公立高校に
  進学できない」という状況になっていました。

生徒に学校の授業をわかるようにさせたい、と3人とも必死でした。
授業は21時半終了でしたが、23時頃になるのは普通で、0時を回って授業をしている日もかなりありました。
近くから来ている生徒がほとんどだったので、遅くなったときは自転車に乗せて自宅まで送っていきました。

毎日23時頃まで勉強させた効果は大きく、生徒たちもこちらの熱意に応えてくれ、多くの生徒が2学期の期末テストで順位を上げました。
当時は、学校の勉強は自分でできる生徒を対象にして難しいことを教える進学塾が多く、学校の勉強をわかるようにさせる補習塾はまだ少なかったことと、「学校の授業がわかる」「テストの順位が上がる」という評判がでたおかげで、何も宣伝しなかったのに毎週のように生徒が入塾してきました。

その結果、翌年の4月には生徒数が100名を越え、これ以上は教室に入れない、という状況になりました。

今思い出しても、この頃がいちばん純粋に塾を楽しんでやっていたと思います。

8畳に15名前後の生徒で授業をしていましたから、ギュウギュウ詰めです。各生徒は、両脇を締めスペースをとらないようにして授業を受けていました。また、窓を閉め切っているとすぐ酸欠状態になって息苦しくなるので、冬でも窓は開けたままで授業をしていました。

疲れると寝転がったり、外(空き地です)に出てみんなで走り回ったり(水雷艦長からケードロへの過渡期でした)、キッチンがついていたので、生徒たちと当番制で夜食をつくったり、土曜の夜(当時は土曜も学校がありました)には泊まり込みの勉強会をしたり、遊んだりしていました。

家で父親とけんかしてビンタをもらい、頬に赤い手形をつけた中3の女の子が泣きながら夜中近くに塾に来たこともありました。家に連れて行って、お父さんと、2時間以上話し、その後お酒を勧められ、気づいたらお父さんと一緒に寝込んでしまっていたことも。(あの頃は、まだ気骨のある父親が多く、身体の不自由な人をからかったり、言葉の暴力で他人の心をさいなんだりするなど、一線を越えたことをすると、父親は容赦なく子どもを殴っていました。親子の信頼関係がしっかり築けていたので、できたのだと思います)

もともと普通の家だったので、風呂やキッチンもついており、泊まり込みが可能です。私たち講師は、だんだん自宅に帰るのがめんどうになり、塾に泊まるようになりました。

授業が終了するのが深夜0時頃、駅前まで食事に行き(まだコンビニはなく、近くの日本最大の団地の名をとったファミレスがぼちぼちできはじめた頃でした)帰ってきて塾で明け方まで麻雀、そのまま寝て、正午頃起きて授業の予習や掃除など塾の準備という毎日でした。

塾の職人を目指す

(この項、いずれ書きます)

附属高校で教育実習

(この項、いずれ書きます)

私立高校の講師、公立中学校の教諭をしていた頃

私立女子校の講師として緊張のデビュー

(この項、いずれ書きます)

公立中学に採用され正規の教員に

(この項、いずれ書きます)

周りの猛反対の中、退職

(この項、いずれ書きます)

やっぱり塾が好き

(この項、いずれ書きます)

大手塾勤務の頃

集団指導教室の教室長の頃

比較的大きな規模の「集団指導」形式の塾に勤めていたことがありました。自分で言うのも何ですが、2年で教室長になり150名弱の生徒と10名前後の学生アルバイト講師、3名の事務担当パートをまとめていた、まあまあ優秀な人材だったと思います。

でも仕事を覚えるのに無我夢中だった時期をすぎ、少し余裕を持って仕事にあたるようになった頃から、さまざまな疑問を感じるようになりました。

例えば、中学生はレベル別のクラス編成をとっており、上位の生徒が集まっているクラスには私と経験が長く授業力のあるアルバイトの学生講師がはいり、中位~下位のクラスには経験が浅いアルバイトの学生講師がはいっていました。(その塾では生徒150人に社員講師1名と決まっており、150名を超えると2人目の社員が配属されます)

上位の生徒というのは、ある程度教えればあとは自分で勉強しますから、担当するのは非常に「ラク」でした。たいへんなのは中位~下位クラス。ここぞという内容を絞って、ピンポイントで教えていかないと、なかなか理解してくれませんし、理解したことを身につけさせる時間も上位クラスの数倍必要です。正直言って学生講師では成績をあげることは無理な状況でした。

そのため、上司に「上位クラスを週に1回学生講師に任せて、私が中位ないし下位クラスを週に1回持ちたい」と言ったところ、「なに青臭いこと言ってるんだ。中位クラス、下位クラスの生徒は学生におもしろい授業をやらせとけば、通ってくれるんだから、授業料だけもらっておけばいいんだ。実績を出すのは上位クラス。親に『しっかりみてます』ということをアピールするためにも、上位クラスを担当しろ」ときつく言われました。

また、カリキュラムの問題もありました。1学年2クラス、3クラス編成で授業を行っているので、クラス替えの時に困らないように、授業進度は上位クラスの生徒にあわせてつくられていました。上位クラスの生徒が他塾の生徒と話したときに、他塾のほうが進度が早いとバカにされるため(ばかげた話ですが実話です)学校より2~3ヶ月先に進むカリキュラムになっています。上位クラスの生徒はよいのですが、中下位クラスの生徒は学校の勉強と塾の勉強が異なっているため、どちらの理解も不十分で、2重の負担になってしまっていました。

余談ですが、大手塾で試験対策をせざるをえないのは、この早すぎるカリキュラムがもっとも大きな原因です。中下位クラスの場合、早すぎるカリキュラムのせいで、理解が不十分になっているため、学校の試験前に再度かなりの時間をとって復習させないと、塾の授業がムダになってしまうからです。学校の進度より少し先に進むくらいにすれば時間と費用が減らせるのに、といつも思っていました。

さらに特待生の問題がありました。当時から、有名公立高校・私立高校の実績を出すために、成績上位者の授業料は「奨学金」という名目で、無料ないし半額となっており、最上位クラスは全員授業料無料という教室もありました。でも上位クラスの授業料を無料にした負担は中位クラスから下位クラスの生徒の授業料に上乗せされてかかってきます。その分、授業料は割高になっています。

確かに、有名高校に合格した生徒の名前や写真をチラシに大々的に載せれば、それに引かれて「自分もそうなれるんではないか」と信じてしまう生徒(親)が集まってきますから、当時の上司が言っていた「経営的な戦略としては当然」という言葉はある意味で正しいのでしょう。でも、授業料を払っていない生徒のクラスに社員講師が配属され、その分高い授業料を支払っている中位~下位クラスの生徒にはアルバイトの学生講師が配属されることに、なんとなく罪の意識がありました。

また、チラシに華々しく写真やコメントが載るのは、大多数が無料で通ってきていた成績優秀者のものです。1月頃(合格発表があってから写真を撮りコメントを集めていたのでは折り込みに間に合わないので、大手塾は入試前にあらかじめコメントを集めています)に「合格した自分を想像してコメントを書いてみよう」ということでコメントを書かせたり、写真をとったりするのも上位クラスの生徒だけ。はしゃぎながら写真を撮っている上位クラスの生徒を横目で見ながら教室に向かう、上位クラス以外の生徒たちのちょっとさびしそうな表情を忘れることができません。

そして、前述のように、宣伝としてはかなり効果的なので、「○○高校に合格!」とチラシに氏名やコメントが出ます。教室の生徒が全員合格しているのならばよいのですが、不合格者が出ている場合、その子がどんな気持ちでそのチラシをみるのかを考えると、そんなチラシはとても出せないな、と思っていました。

さらに「無料体験で釣った(この表現自体なじめませんでした)生徒は絶対逃すな」「とにかく生徒数を増やせ!」といった営業優先の体質。生徒が「やめたい」と言ってきたときには、保護者の方や生徒と何回も面談を繰り返し、その決意を翻意させねばなりません。「退塾を申し出てきた生徒を翻意させる面談マニュアル」という30ページくらいの冊子が常備してあり、生徒や保護者の方から「部活が忙しいから」「家庭の事情で」等の理由が提示されたとき、それをどうつぶしていけばよいかが細かく書かれていましたし、そのためのトレーニングもありました。

塾も確かに「営利」を目的とした企業ですから、しかたがない面もあったと思います。でも私は「何かちがうんじゃないか」と思うようになってきました。

個別指導教室が併設された頃

教室長になって2年目、個別指導の教室が併設されました。私の勤めていた塾が個別指導の教室をつくった目的は、集団指導教室では入塾試験をおこなっており、入塾試験に落ちた生徒や、集団指導の授業についていけなくなった生徒の受け皿をつくることでした。また、講師採用でも、集団指導の教室では講師を厳選していたため、採用は応募者の1割~2割しかなく、けっこうな人数を落としており、せっかく募集広告費をかけているのに、ということもありました。

集団指導授業ではどうしてもクラス上位の生徒に焦点をあてた授業をせざるをえず、ついていけない生徒が出てきます。私は教えることが好きで、教室長の事務仕事は深夜に回し、しょっちゅう補習授業をおこなっていたほうでしたが、授業がぎっしり入っているので時間的に厳しいものがあり限界を感じていました。そのため、個別指導が併設されることによって「一人でも多くの塾に来てもらった生徒に、わかった、できる、という感触をつかんで帰ってもらえる」という気持ちで、ちょっとほっとしました。

個別指導のノウハウがほとんどなかったので、社長が個別指導を専門におこなっている塾から社員をスカウトしてきており、この社員が教室長を集めて研修会を行いました。同じ教室の違うフロアにあった個別教室の教室長が過労で入院してしまったので、私が代わりに個別指導の研修会に出席したときのことでした。

* 今でもたぶんそうですが、塾は社員とアルバイトのサービス残業で経営がなりたっていると
  ころが多くあり、社員評価の重要ポイントの1つが、「どれだけ(自分が)サービス残業を
  したか」「どれだけ学生にサービス残業をさせたか」でした

5月中旬だったので「夏期講習」についてでしたが、衝撃の研修会でした。
まず各教室に夏期講習費の売り上げのノルマが指示され、各教室ではノルマを達成するために「A君は12万円」「B君の家はたぶん何も言ってこないので20万円」「C君の家はお金がありそうなので、30万円」等、具体的にどの生徒(ご家庭)からいくら講習費をいただくかをあらかじめ決めて報告しなければなりません。

そして担当する学生講師に「夏はがんばった方がいいので、50コマとろうよ。必ず成績があがるから」というようなセールストークを生徒におこなうように指示し、そのための研修をする、セールスをしない講師は夏期講習の授業は持たせない、生徒が払った夏期講習費の5%をセールスをした講師にバックする、教室長は夏期講習前の面談の際に各ご家庭から10万円以上の講習費をいただけるよう、5月下旬からご家庭にマメに電話をして熱心にめんどうをみているというイメージをつくるように、と指示が出されました。唖然としました。

もちろん集団指導の教室でも目標とする利益は提示されていましたが、「講師みんなでよい授業をして、その結果生徒が増えれば目標利益が達成できる」という考え方で運営されていました。ところが個別指導教室の場合、先に利益ありきで、その利益を誰からいくらいただくのか、教える内容ではなくて、家庭の事情で決めるという、ちょっと考えられない方法がとられていました。

集団指導教室の教室長として「何かちがう」と思い始めていた時期だけに、個別指導教室の会議での内容はショックでした。(今ではこのような非常識な方法をとっている個別指導教室はほとんどなくなっていると思います)

* 個別指導は生徒2人に講師が1人つく形がポピュラーです。(これは素人の大学生でも2人
  くらいならなんとか苦情がこずに教えられる人数だからです)つまり生徒2人の授業料で講
  師1人の給与を負担することになります。集団指導の場合、生徒10名~15名前後で社
  員1名の(集団指導は個別指導の数倍のスキルが必要とされるので、基本的に社員が半分く
  らいのコマを持ち、残りを厳選されたアルバイト学生で運営するのが基本です)給与を負担
  することと比べると、利益が少ないのは明らかです。

  そこで講習や定期試験前に増コマ(あまり好きな言葉ではありませんが、生徒に授業数を増
  やしてもらい、売り上げ増をはかります)することによって、社員のボーナスや本部経費
  (本部社員の給与や、本社ビルの賃貸料等)を捻出せざるをえません。個別指導塾では、構
  造的に増コマのセールスをせざるをえないしくみになっているのです。

  個別指導教室の面談実施時期はたいていが講習前や定期試験前です。残念なことですが、面
  談の目的が、生徒の成績をあげるためではなく、セールス・売り上げアップのためだからで
  す。

もう一度自分で塾をやろうと決意

学生時代に見よう見まねで始めた個人塾しか知らなかった井の中の蛙状態の私を大きく育ててもらい、さらに「企業化された塾」がどういうものかを教えてもらった会社でしたが、この頃から「学生時代にやっていたような塾をもう一度自分でやりたい」と思い始めました。
(この続き、いずれ書きます)